セネガル旅行記
12日目 ダカール市内とゴレ島観光
今日は出発時間が遅いが6時半に起きて久しぶりの風呂に入り、その後洗濯をする。
9時10分ホテルを出発、海岸線に沿って走る。ジョッギングやウォーキングをしている人の姿が目に付く。ブルキナファソやマリでは肥っていることが美人の条件だったが、セネガルでは痩せてすらっとした体形に人気があるという。
15分足らず走ると高い塔のあるモスクがあったのでバスを下車して見学する。このモスクはモロッコのハッサン2世が寄進したモスクで10000人を収容でき、1964年に建てられたのにちなんで塔の高さは64mになっている。
グランドモスク
グランドモスクを発って少し走るとダカールのシャンゼリゼと言われるシャルル・ドゴール通りに出た。前方にはダカールのエッフェル塔と呼ばれる独立記念塔が見える。この塔は1960年に建てられたことにちなみ高さが60mになっていて、基部にはセネガルのシンボルであるライオンの像がある。
独立記念塔
次いでポイント・アルマハディと呼ばれるアフリカ大陸最西端に地にいく。しかし最西端の部分はクラブ・メディテリアン・ホテルの私有地になっているのでそばまでしかいけない。海上にはアフリカ最西端の灯台があり、20年前に座礁した船の船首が顔を出している。砂浜にはおびただしい数の貝殻が打ち上げられていて、なかなかきれいだった。
ポイント・アルマハディ 灯台と難破船 貝殻
さらに海岸線を走ると展望台があり、下にモスクが見えた。ディゼニティ・モスクで1997年に建てられたという。
ディゼニティ・モスク
モスクを見た後はキリスト教の大聖堂を見る。セネガルでは90%がイスラム教徒で、キリスト教徒とアニミズム信仰者は5%ずついるという。この大聖堂は1929年に建てられ、正面の天使像はフラニ族の女性の顔になっている。セネガルではフラニ族の女性が一番美人と言われている。
大聖堂 天使像
このあと大統領官邸に行く。もとフランス総督府だった建物で、正面の門には衛兵が立っている。衛兵と並んで写真を撮ることができるが、なぜかビデオの撮影は禁止されている。
大統領官邸 衛兵
大統領官邸から20分ほど走ると港に到着した。土産物屋が並んでいて1軒の店の中で砂絵を描いていた。板の上に糊で絵を描き、色のついた砂を上からこぼして色をつけるのである。絵葉書を買おうとした人がいたが、風景写真は少なく上半身裸の女性の写真ばかり並んでいた。
砂絵の制作 砂絵
連絡船に乗り込み世界遺産に登録されているゴレ島に向かう。ゴレ島はダカールの沖合いに浮かぶ長さ900m、幅300mの小さな島で、奴隷売買の中継地として使われた。1444年にポルトガル人がやってくるまでは無人島で山羊しか棲んでいなかったという。
ダカール市街 ゴレ島
出航して20分ほどでゴレ島に到着した。港の近くにはダカール市内に総督府が建てられるまで使われていた旧フランス総督府の建物が残っている。
港 旧フランス総督府
まず港の近くのレストランに行き昼食をとる。メニューはエビとロティという白身の魚の串焼きであった。西アフリカでは魚の料理が多い。
レストラン
エビ ロティの串焼き
食後、赤い建物に挟まれたノスタルジックな路地裏を通って歴史博物館に行く。この建物は1858年にフランスの要塞として造られ、セネガルが独立後は刑務所になっていたが、今は博物館として使われている。中に入ると半円形の中庭の周りに13の部屋があり、そのうち10の部屋に人類の誕生から独立までの史料が展示されていた。屋上に上るとたくさんの大砲が周囲を睨んでいた。
路地裏 歴史博物館
中庭 屋上の大砲
博物館を出て町の中を歩いていく。フランス統治時代の建物の一部は民家になっていて庭に洗濯物が干されていた。島の南端の丘の上にも要塞の跡があり、丘の下にはモスクが建っていた。ゴレ島には1200人の住民がいるが、3分の2がイスラム教徒だという。
民家 要塞跡とモスク
カソリックの教会もあった。この教会は1830年に建てられアフリカ人の最初の神父アベ・ムーサの像が飾られている。入り口にシャコ貝の洗礼器が置いてあったのはいかにもアフリカらしい。
教会 祭壇
アベ・ムーサ像 洗礼器
裏通りを歩いていくとストレングリング・ツリーという木に取り付かれて壊れてしまった家があった。この木はイチジクの仲間の木で、他の木にも取り付いて殺してしまうという。
ストレングリング・ツリーに取り付かれた家
海辺に奴隷を積み出していた大きな家があった。1777年にオランダ人によって建てられた家で、中庭の正面の建物の2階はオランダ人の住居で、1階はアメリカへ送り出す奴隷を収容する部屋になっている。西アフリカの各地の港から1500万人から2000万人もの奴隷が3ヶ月かかってアメリカに送られていたという。
奴隷の家 中庭
1階の部屋は男の部屋、女の部屋、子供の部屋、処女の部屋に分かれていてどの部屋も銃眼のような小さな窓しかない。男の部屋は3畳から4畳半くらいの大きさでここに15人から20人も詰め込まれ、1日に1回しかトイレに行かせてもらえなかったという。男は銃1丁と交換され、子供は鏡1個と交換された。体重を計る部屋があり男は60kg以上ないと銃と交換できなかったので体重の足りない男はむりやり食べさせられたという。
処女を入れる部屋もあり処女も男と同じ値段で交換されたという。どのようにして処女と見分けていたかと聞くと胸の形で決めていたという。反抗する奴隷は天井が低くて立つこともできない畳1枚くらいの狭い部屋に押し込めらるか、海に投げ入れられて鮫に食べさせられていたという。女はヨーロッパ人の子を妊娠すると奴隷として売られなかったので自ら体を提供したという。
男の部屋 処女の部屋
アフリカにはヨーロッパ人が来る前から奴隷制度があり、元々は貧しくて食べていけない人が自分から奴隷になったが、7世紀からは世襲制になった。ポルトガル人が来て奴隷を買うようになると、アフリカ人の奴隷商人が奴隷以外も捕まえて奴隷として売るようになったという。
再び連絡船に乗ってダカールに戻る。ホテルに行く途中ダカール駅がありきれいな外観なので下車して写真を撮る。駅前の広場に市場があり、カリテという植物の実から採れたバターが売られていた。日本では肌に良いクリームの素材としてシア・バターという名で売られているというので買ってみた。900グラムで2000セーファーフラン(400円)だったが、日本の値段は30グラムで900円前後だから50分の1以下だ。
ダカール駅
17時30分ノボテルに到着、ホテルのレストランで夕食をとる。メインディッシュはローストビーフだったが肉が固くてなかなか食べられなかった。