ポルトガル旅行記
13日目 ロカ岬、シントラの王宮、リスボン市内観光
今日は午前中にロカ岬と歴代国王の夏の離宮であったシントラの王宮を訪ね、午後リスボンの市内観光をした。
食べ過ぎで少し肥ってしまったので朝食前に1時間ほどウォーキングをした。坂が多く石畳の凸凹した道なので歩きにくくそのせいかほかにウォーキングをしている人の姿は見られなかった。
9時にホテルを出発する。今日はポルトガル人のガイドに日本人ガイドのまゆみさんが応援に加わった。真由美さんはゆっくりと話してくれるので大変聞きやすくリラックスできる。水道橋の下を通りモンサント森林公園の脇を走る。モンサント森林公園はリスボンの面積の6分の1を占める大きな公園で1930年から1970年のサラザールの独裁政権の時代に囚人に木を植えさせてできたものである。
高速道路に入り右手にシントラ山脈を見ながら走る。シントラの周辺では大理石が採れ、一般の民家の外壁にも大理石が用いられている。高速道路を下り、山の中を走る。山の木は枯れている木が多い。山火事で焼けたのだという。ポルトガルでは夏季に山火事が各地で起っているという。
マイル・ダ・セーラという村を過ぎる。このあたりの民家は白壁に赤い屋根の家で、窓が青く縁取りされている家が見られる。これは8世紀のアラブの影響で魔除けの意味がある。
ギンジョの浜を通る。ギンジョとは金切り声という意味で高波が金切り声のように聞こえるからだという。ここでは毎年サーフィンやウインドサーフィンのヨーロッパ大会が開かれている。
山の中の道に入る。大きな門が見られる。キンタ(農園)の門で奥の方に大きな家が建っている。風車の骨組みも見える。羽に壷がたくさんついている。風を受けると音を立てるので魔除けとしてつけられたのだという。風車は今は使われてなく、レストランの一部になっている。
ユーラシア大陸最西端の村アザイヤ村を通り9時45分にロカ岬に到着した。ロカ岬はユーラシア大陸最西端の地でポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンエスが「ここに陸終わり、海始まる」と詠んだ地である。ここには18世紀に造られた灯台が建っている。
岬の先端には十字架のついた碑が立っている。カモンエスの詩を思い浮かべて大西洋に面した海岸はどこでも先に陸はないのだから同じでないかとけちをつけてはみたが、やはりここは特別の場所に思われ旅行社が手配してくれた訪問記念証明書をありがたく受け取る。
最西端の碑(拡大) 訪問記念証明書
碑の左側にも遊歩道が続いていて、この道から素晴らしい景色を眺められた。崖下に白波のたった岩があった。小さな岩だと思っていたら近くの舟が豆粒のように見えるのでかなり大きな岩だとわかった。
左側の展望(拡大) 岩と舟
草原には松葉菊がたくさん見られたが、ほかにも黄色い花が集まった変わった花が咲いていた。
黄色い花
ロカ岬を10時15分に出発、35分ほど山道を走ると世界遺産に登録されているシントラに到着した。シントラは別名「月の山」と呼ばれ、昔ケルト人が住んでいて月の女神シンシアに祈りを捧げていた。昔はここにたくさんん動物が棲んでいてシンシアは狩の女神でもあった。ケルト人が造った遺跡が残っているが、路傍の山の中に転がっている大きな石も人工物かもしれないとまゆみさんは言っていた。
シントラの手前に天正の少年使節団が最初にミサを上げた修道院があり、今はシーザン・パーク・ホテルの所有になっている。シントラには19世紀からはたくさんの芸術家が来るようになり、アンデルセンやバイロンも来ていて、バイロンは「エデンの園」と称えたという。
ここには王家の夏の離宮があり、14世紀にジョアン1世がイギリスから迎えた妃のために建てたものであるが、狩猟用の別荘として使われていた。王宮の右側の屋根から33mもある2本の煙突が出ている。王宮には45以上の部屋があり、このうち25室が公開されている。
シントラの王宮(拡大) 厨房の煙突
王宮に入り螺旋階段を登ると大広間に出た。白鳥の間と言われ各国の来賓の晩餐会に用いられている。この部屋はジョアン1世が27歳でイギリスのチャールズ2世に嫁いだ娘のカタリーナの幸せを願って造らせたもので、天井には27羽の白鳥が描かれている。白鳥のつがいは相手を変えないの円満なカップルと貞節のシンボルになっている。壁には市松模様のアズレージョで埋め尽くされていてアズレージョの博物館と呼ばれている。チャールズ2世は浮気者だったので、さびしくなったカタリーナは午後にパーティーを開いてお茶を振舞っていた。ここからアフタヌーンティーの習慣ができたという。
中庭を通り過ぎるとカササギの間に出た。天井にはPORBEMと書かれた布を持った136羽のカササギが描かれている。これはジョアン1世が待女にキスをしている所を王妃に見つかりPORBEM(善意)と言いわけをしたことから来ている。136は待女の数であり、カササギが足に掴んでいるバラの花は王妃の出身地英国の国花である。夏に使われる離宮なので暖炉は必要ないのだが、部屋の中央の壁にはアレンテージョ産の大理石で作られた暖炉が置かれている。
この後セバスチャン王の間に出た。セバスチャン王はアフリカをキリスト教国にしようと思って軍隊をひきつれてモロッコへ遠征したが、モロッコ軍に大敗し行方不明になってしまった。セバスチャン王は女性嫌いで独身だったので後継者がなく、ポルトガルはスペインに併合されて60年間支配された。壁にはセバスチャン王の肖像画が懸けられ、机には天測儀が置かれ、その脇には銀で飾られた黒檀の大きなベッドが置かれている。壁のアズレージョに書かれたブドウはワインを表し、縁取りのトウモロコシはパンを表している。ワインはキリストの血のシンボルであり、パンはキリストの身体のシンボルである。
天井に人魚が描かれた人魚の間、帆船が描かれたガレオン船の間を通り、螺旋階段を登って3つの部屋を通り過ぎ、インド製のタペストリーや象牙の象嵌細工のある家具の置かれている小間を抜けると紋章の間に出る。紋章の間は王宮で最も豪華な部屋で16.5m四方の天井の中央にはマヌエル1世の大きな紋章、その周りにはマヌエル1世の王子や王女の8つの紋章、壁の上部には王に仕えていた貴族の72の紋章、下部には王侯貴族の生活を書いたアズレージョが描かれている。貴族の紋章の1つは削られて白くなっている。反乱の企てが発覚し消されてしまったのである。
隣の細長い部屋には豪華なタペストリーがある。その先には気が狂ったとされて弟ペドロ2世によって幽閉されたアフォンソ1世の小さな部屋がある。アフォンソ1世が部屋の中を歩き回ったので石の床が磨り減っている。ペドロ2世はアフォンソ1世の妻と結婚したので陰謀ではないかと言われている。
その先には中国の間がある。マリア1世が中国近海を荒らす海賊から中国を守った。それを感謝して中国から贈られた屏風や象牙の塔などの調度品が置かれている。
礼拝堂には壁にたくさんの鳥の絵が描かれている。平和のシンボル鳩がオリーブの枝を加えているフレスコ画がかかっている。
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アラブの間の中央には水盤がある。アラビア人は水盤を取り囲んでパーティーをしたという。ここにあるアズレージョは15世紀にセビリアで焼かれたものである。
隣の部屋は客間で、ベッドや黒檀と胡桃の箪笥が置かれている。ベッドは小さく見えるが、当時は敵が来襲したときすぐ起き上がれるよう背中にクッションを入れて上半身を起こして寝ていたという。3つの柱があるが、これは信仰、誠実、美の3美徳を表している。
厨房には大きな太い煙突が2本ある。壁にはポルトガルの紋章とサボイ家の紋章がついている。ほかにたくさんのパン焼き器、山の水を引いてきて貯めておく貯水槽、大理石の調理台がある。
マヌエル王の間にはイタリアのムラーノ製の豪華なシャンデリアや鏡があった。以上で見学は終わり外に出る。
王宮前の山の頂きにはムーアの城址、麓には旧貴族の館などが並んでいる。
王宮前には土産物屋がたくさんあり陶器や布の工芸品が並んでいた。シントラにはケイジャーダというチーズ(ケイジャ)の入った名物菓子がある。1包み3.25ユーロというのでお土産に買った。
土産物
昼食をシントラにあるTENDINHAというレストランでとる。メニューはフレッシュチーズサラダ、カルネ・デ・ポルコ・ア・アレンジャーナという豚肉とアサリとポテトの炒め物、ケイジャーダだった。
レストラン
フレッシュチーズサラダ カルネ・デ・ポルコ・ア・アレンジャーナ
食後リスボンに戻り、まずジェロニモス修道院を見学する。この修道院は1502年から100年かけて建設された石灰岩の建物で長さが300m以上ある。
ジェロニモス修道院(拡大) ジェロニモス修道院入り口(拡大)
中に入るとヴァスコ・ダ・ガマの墓があった。19世紀に作られたものであるがマヌエル様式になっている。
ヴァスコ・ダ・ガマの墓
身廊の高さは25m以上あり、前方の主祭壇は装飾の少ないルネッサンス様式、後方はごてごて装飾されたマヌエル様式になっている。
ステンドグラスには聖母マリアやマヌエル1世が描かれている。
ステンドグラス
左側の壁に懺悔室があり、入り口の周りにはいろいろな国の顔が彫られている。日本人の顔というのもあり、頬かむりした男が彫られていた。
懺悔室入り口(拡大)
身廊の柱にはどんぐりや人間の顔などが彫られており、どんぐりを触ると金持ちになり、人間の像に触ると健康になると言われていて、大勢の人に触られてつるつるになっている。
柱 どんぐり
このあと自由行動になり、3ユーロを払って修道院に入る。ここには中庭を囲んで55m四方の見事な回廊がある。石灰石で造られ繊細な彫刻が施されている。
中庭(拡大)
このあとベレンの塔を見るためテージョ川沿いに1kmほど東に走り公園の前で下りる。ベレンの塔は川からの侵入者を見張るために1514年にマヌエル1世の命で造られた川の中の塔である。3階は王族の居城、2階は砲台、1階は水牢になっている。この塔はフランシスコ・アルーダが設計し最も美しいマヌエル様式の建物と言われている。
ベレンの塔(拡大)
公園の入り口近くには1922年に2人の飛行士がリオ・デ・ジャネイロまで飛んだ飛行機のレプリカが置かれていた。
大西洋横断の飛行機のレプリカ
テージョ川に沿ってさらに東に走ると発見のモニュメントが立っていた。エンリケ王子の500回忌を記念して1960年に建てられた高さ52mの記念碑で、3本マストのカラベル舟を手にしたエンリケ王子を先頭にヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、カモニス、エンリケの母フィリパ王妃など大航海時代に活躍した32人の像が彫られている。フランシスコ・ザビエルの像もエンリケ王子に向かって右側の列の後ろから2番目に彫られている。
発見のモニュメント(拡大)
発見のモニュメントの手前には直径55mの世界地図の描かれたモザイクがあり、世界各地の発見の年号が刻まれている。日本発見の年号はポルトガル船が豊後に漂着した1541年になっている。
世界地図
希望岬 日本
次にアルファマ地区に向かう。途中車窓からコルメシオ広場が見えた。リスボン地震以前にマヌエル1世の宮殿があったため宮殿広場とも呼ばれている。広場の中央にはドン・ジョゼ1世の騎馬像が建っている。
コルメシオ広場(拡大) ドン・ジョゼ1世騎馬像
アルファマ地区の前でバスを降り路地に入る。この地区はアラビア人が造った町で、カスバのように入り組んだ通りになっている。人の肩幅よりやや広いだけという幅の狭い道もあり、敵が馬に乗ったままで入ってこないように造られたものだという。ファドはこの町で生まれたという。8世紀から変わっていないという狭い道を歩いていくと魚の臭いが強くする。午前中に道端で市場が開かれていたのだという。
アルファマ地区(拡大)
小道を歩いていると城壁に出て、城壁に張り付くような幅の狭い家があった。リスボンで一番小さい家で今でもおばあさんが猫と一緒に住んでいるという。
リスボンで1番小さい家
アルファマ地区を出て今回の旅の観光はすべて終わりホテルに引き返すことになったが、まだ日が沈んでないので途中のペドロ4世の像のあるロッシオ広場でバスを降りて、丘の上にあるサン・ジョルジュ城を見学した。
ロッシオ広場のすぐ東にあるフィゲイラ広場から1ユーロを払って旧型の路面電車に乗り丘の上に行く。途中で幅の狭い道がありカーブするときはもう少しで民家の壁をこすりそうになる。
路面電車 線路(拡大)
丘の上で下車し停留所の近くにある見晴らし台に行く。テージョ川や河岸の建物の眺めが素晴らしい。
城門をくぐりサン・ジョルジュ城の中に入っていく。内部は公園になっていて見晴台からはテージョ川や第2次大戦で中立を保てたことを感謝してブラジルのリオ・デ・ジャネイロにあるキリスト像を模して造った高さ110mのキリスト像の塔が眺められる。
サン・ジョルジュ城の城壁に登ると見張りの塔がいくつもあり、ロッシオ広場やフィゲイラ広場、教会など旧市街の眺めが良い。
城壁から下の方へ階段がついていてその先にフィゲイラ広場が見える。ここから下りれば簡単に広場に出られると思って下っていくと見張り台に出てそこで道が切れてしまったのでせっかく下りた長い階段を登る羽目になってしまった。
見張り台への階段
再び路面電車に乗って丘を下り、ロシオ広場からタクシーに乗ってホテルに戻る。3人で乗って割り勘にしたので2ユーロですんだ。ホテルについたときは日が沈んだ直後で夕焼けが素晴らしかった。
夕焼け
夕食はホテルのレストランでとった。メニューはキャロットクリームスープ、子牛肉のステーキとポテトと野菜、パステル・デ・ナタというエッグタルトであった。今日はポルトガル最後の夜だが明日の起床時間が早いので食後すぐ休んだ。